
考古学は、過去についてモノから探り、それを作りだしたヒトとはどのような存在かを考える研究分野です。
ここでいう過去は、遠い時代のことだけを指すのではありません。いまこの一行を読んだ、数十分の一秒前も過去です。残されたモノから、その向こうにいるヒトを読む。 この方法は、数万年、数千年前にも、ごく近い過去にも使えます。
けれども、過去のヒトはもう直接見ることができません。話を聞くこともできません。残っているのは、土の中に残された活動の痕跡と、運よくいままで残ったモノしかありません。土の中に埋もれているこれらも、ただ土の上からどれだけ目を見開いても、人間の視覚では見ることはできません。
だから考古学は、見えないものを見るための方法を積み上げてきました。地面の下を、モノの表面や内側を、失われた時間を、そしてその向こうにいるヒトを。
このページでは、その4つの層をご紹介します。三重大学人文学部考古学研究室がどのような所なのかは、これを読んでいただくのがいちばん早いと思います。
地中を見る — 掘るや掘らざるや
なぜ土の中から過去のヒトが残した痕跡がわかるのでしょうか。これは、ヒトが大地に対して働きかけを行った結果、その部分の土が変質することにより知ることができるのです。掘った場所は元には戻りません。それは発掘調査であってもかわりません。詳細を知り、また当時のヒトが生み出したモノの実際を見ることができる点で、発掘は最良の方法ですが、これも遺跡を改変してしまう作業でもあります。だからこそ、掘る前にできるだけのことを知り、またよりよい発掘調査を行う必要があります。
このため、私たちは基本的な考古学研究や発掘調査技術を学ぶことに加えて、遺跡探査の技術の活用にも挑戦しています。例えば地中レーダーを使用すると溝や建物を、磁気探査を使用すると窯や炉など火を用いた場所を探すことができます。医学の世界で言えば、手術の前に行う事前の検査のようなものです。お腹が痛いからといっていきなり手術はしませんよね。なるべく手術をせずに必要な場合のみ行うはずです。遺跡も同じ。なるべく壊さないように、次の時代に繋がるように考えながら、地中の情報を得ることに挑戦しています。
掘る前に分かるのは、位置だけではありません。溝や柱の並びが見えれば、その土地のどこに建物を置き、どこを通り道にしたのかがわかります。そこでどのような道具が使われ、どのような生活が行われてきたのか、そうした過去の風景を考える材料が地面の下から出てくるわけです。

モノを見る — 残されたものの外から内まで
土器を手に取ると、表面に細かな痕跡が残っていることに気付きます。作る時に指で押した跡、回しながら整えた跡、そして使っている時についた跡。そうそう、掘るときにぶつけてしまった跡も。そんなヒトの行為を考えるには、その形や痕跡を観察して記録することが必要です。

三次元計測を使うと、モノの形を数値によって示すことができます。このデータを使うと、目では見えにくい凹凸を強調したり、断面を切ったり、3Dプリンタで出力して手に取ったりできます。データは何度でも複製でき、遠くにいる、それを必要とする人と共有できます。
さらに内側を知りたいときは、外部の機関の機材を利用してCTによる観察も行っています。細長い壺の中などの状況を見ることは難しいですし、土器の断面をみると、粘土をどう重ね、どこで接いだのかを知ることができます。
このような作業で見えてくるのは、作ったヒトの技術やそれを使ったヒトの暮らしです。どの向きに回し、どのくらいの力で押さえ、どこで手を抜いたか。それはどのように使われ、生活を支えていたのか。小さなかけらになってしまったものからも、歴史やヒトを考えることができます。
断片から全体を見る — 一部しか残らないものから
遺跡から出てくる資料、例えば土器は、ほとんどが破片です。完全な形で見つかることは、珍しいことです。
出てきたものは丁寧に洗い、パズルのようにくっつけたり、足りないところを樹脂や石膏で補った上で観察や実測をします。実測とは、観察して得られる情報を図にする方法です。先ほどの三次元計測やCTなどの技術の利用もありますが、破片を手で測り、手作業で図を描く。単純な作業のように見えて、これは形と作り方を読み取るひとつの方法です(実測は、専門職の採用試験でその人の技量をはかるために課されるところもあります。詳しくは進路と就職をご覧ください)。他の例を参照しながら、欠けて見えない部分を想像することも大切です。

モノの形の変化には順序があります。型式論は、その順序を並べて時間の目盛りを作る方法です。層位論は、地層の重なりから前後関係を読む方法です。近年は形態測定学により、形を統計的に扱う方法も使います。人の目が捉えてきた違いを、ある程度の再現性のある数字で検討することもできるようになりました。
こうして、破片から一つの資料の姿が見えてきます。資料が集まれば、その時代の様子を考えることができます。いつ、どこで作られ、どこまで運ばれたのか。何が残され、何が失われたのか。モノの動きは、ヒトとヒトのつながりの跡です。
ヒトを見る — モノを通じて考える
このようにして得た情報を使って私たちが知りたいのは、そのモノを作り、使い、そして捨てた人が、何を思い、どのような活動をしていたのかということです。
ムラから出てきた器を並べてみると、質の差や量の偏りが見えることがあります。誰がどれを使っていたのか。何かの目的のために特別に用意されたものはあるのか。遠くから運ばれてきた器をなぜ持っているのか。
こうやって検討する考古資料は、珍しいモノだけではありません。むしろ当時の人々にとって身近でありふれたものが中心です。しかし、そういったモノには、作るヒトの技術や感性、使うヒトの暮らしや嗜好といった、ヒトが作り出した社会のありかたが染み込んでいます。
モノはヒトが必要と考えて生み出したものです。しかし、その存在がいつのまにかヒトが制御できる範囲をこえて、ヒトを苦しめたり、存在を否定するものとなっていることもあります。社会や価値観についても同様です。住みにくさや窮屈さを感じている方は今も多いと思います。はたしてそれが大切なものなのか、とらわれていないか、それが形成されてきたのは何故か、という問いは、今後もヒトが生きていく上で大切なものだと考えています。そして、このような問題は方法を磨き、意識して検討しなければ見ることも気付くこともできません。私たちはいかに歩み、どこへ向かおうとしているのか。立ち止まって、それを確かめることも大切と思います。
いま私たちが過ごしている社会も、こうやって積み上げられてきた知識や技術の上に成り立っています。考え方や常識といわれるものであっても、時代に応じてどんどん変化していきます。過去のヒトやモノに学ぶだけでなく、それを基点に今を生き、未来を生きるであろう私たち自身について考えるための問いかけを続けることが考古学の役割だと思います。
技術は、手立てです
ここまで、装置や手法の名前をいくつも紹介してきました。けれども私たちは、機械を動かすために考古学をしているわけではありません。
考古学の目的は、ヒトを理解し、歴史を明らかにすることです。技術は、そこに届くための手立てです。目的があるから、手立てを磨く意味があります。逆に言えば、どれほど優れた技術や機器を使っても、その先にヒトや歴史が見えてこなければ、それは考古学になりません。
見えないものを、見る。そうやって私たちは、もう会えないヒトたちや戻せない時間のことを知り、あっという間にやってきては消えていく今がどうやってつくられてきたのか、そしてその時がやってくるまではわからない見えない未来を考えたいと思います。
